■チャート分析
午後3時、アーリーは朝ならば成功していたであろう小さな攻撃でその攻勢を再開したが、簡単に撃退された。午後4時、アーリーの軍団は反撃をした。アーリー軍3個師団は約3マイル (5 km)の長さに伸びきった前線にあり、その側面は防御が無かった。エモリーはジョージ・アームストロング・カスター准将の騎兵師団の支援を受けて開いている左側面に付け込み南軍の前線を破った。他の騎兵隊が南軍後方の橋を破壊しその逃走路を遮断した。多くの古参南部兵が大壊走の中で戦う術はないと判断して降伏した。北軍は数百名を捕虜にし、大砲43門(そのうち18門は午前中に捕られたものだった)と南軍が持って行けなかった物資を捕獲した。
この戦闘は南軍の決定的な敗北に繋がった。南軍はシェナンドー渓谷を通ってワシントンD.C.を脅かすことができなくなり、またシェナンドー渓谷の経済基盤を守ることもできなくなった。エイブラハム・リンカーン大統領の再選は事実上この勝利で助けられ、フィリップ・シェリダン少将は永続する名声を得ることになった。ジュバル・アーリーの部隊は実質的に機能を失い、生存部隊はその12月にピーターズバーグを包囲されているロバート・E・リー将軍の軍隊に戻った。
後にアメリカ合衆国上院議員になったヘンリー・A・デュポンはシーダークリークで初期の撤退を指揮し、シェリダンの最終的な勝利に貢献したことで名誉勲章を受章した。
この戦闘にバーモント旅団が参戦したこと(南北戦争の他の戦闘よりもこの戦闘には多くのバーモント兵が参加した)は、バーモント州モントピリアにあるバーモント州議会議事堂2階のシーダークリークの間の大きな壁画で記念されている。スティーブン・トーマスが指揮した第8バーモント連隊は戦闘の早朝に英雄的な抵抗を行ってその3分の2近くが失われたが、その場所である尾根が、1997年に高規格道路の建設で損なわれる提案が出た。この提案に対してバーモント州議会を動かし、バージニア州に尾根を通る道路建設を停めるよう求める決議案を採択させた[2]。
シーダークリーク戦場跡の1,450エーカー (5.8 km2)以上がシーダークリークとベルグラブ国立歴史公園の一部として保存されている。この公園は共同管理公園であり、歴史史跡国民信託、シェナンドー渓谷戦場基金、ベルグラブ・プランテーション、ポトマック川管理委員会およびシーダークリーク戦場基金など非営利保存団体によってその土地の多くが所有されている。さらに、南北戦争保存信託のような非営利団体がこれらの土地の保護に向けた基金を寄付した。
2008年5月、フレデリック郡管理委員会はカームユーズ・ライム・アンド・ストーン社がシーダークリーク戦場跡での現在の活動を拡張することを認める評決を行った[3]。この評決はカームユーズにシーダークリークの戦場跡を中心に394エーカー (1.6 km2)の採掘を認めるものである。この決定に反応して、全国と地元の保存団体がシーダークリークおよびベルグラブ連盟を作り、戦場跡における新しい採掘に関する大衆の認知を高め、シーダークリークの今後の保存を促進している。2008年10月、戦闘から144回目の記念日に関連して、
外国為替
はウェブサイトとアニメ入りの地図を起こし、採掘が戦場跡に起こすであろう影響をうまく説明しようとしている。
シャイローの戦い(シャイローのたたかい、英:Battle of Shiloh、またはBattle of Pittsburg Landing)は、南北戦争初期の1862年4月6日から7日に、西部戦線テネシー州南西部で行われた大きな戦いである。アルバート・ジョンストン将軍とP・G・T・ボーリガード将軍が指揮する南軍が、ユリシーズ・グラント少将の指揮する北軍に急襲を掛け、敗北寸前まで追い込んだ。
戦闘の1日目、南軍はグラントのテネシー軍がドン・カルロス・ビューエル少将のオハイオ軍と合流する前に叩いてしまうことを期待して、テネシー川から北軍の守備隊を遠ざけ西のオウル・クリークの沼地に追い遣ろうという意図で攻撃を仕掛けた。南軍の前線が激しい
FX
の間に混乱し、その間にグラントの兵士は北東のピッツバーグ・ランディングの方向に後退した。「ホーネッツネスト」と渾名されるやや窪んだ道路に陣取ったベンジャミン・M・プレンティスとW・H・L・ウォレス各准将の師団が防御し、北軍が数多い大砲列の保護の下に安定を取り戻す貴重な時間を得た。ジョンストン将軍は1日目の戦闘中に戦死し、副司令だったボーリガードがその夜に北軍最後の陣地に対する攻撃を決断した。
その夜にビューエル将軍の援軍が到着し翌朝には流れが変わった。ビューエルとグラントは全線にわたる反撃に転じた。この時までのアメリカ史で最も流血の多い戦闘の後で南軍は退却を強いられ、ミシシッピ州北部への北軍侵入を食い止めるという望みが絶たれた。
南軍は1862年2月にヘンリー砦とドネルソン砦を失った後で、アルバート・ジョンストン将軍はその軍を再編するためにテネシー州西部、ミシシッピ州北部およびアラバマ州に退いた。3月初め、これに反応した北軍の西部戦線司令官ヘンリー・ハレック少将は、グラントとその西テネシー軍(この戦闘後間もなく、そのより有名な名前であるテネシー軍と呼ばれる)にテネシー川を上って侵略するよう命じた(ハレックはグラントに対する職業的また個人的な敵意のために、
FX
グラントの部下であるチャールズ・F・スミス少将にその遠征を率いさせ、グラントはヘンリー砦で待機しているはずだった。エイブラハム・リンカーン大統領が干渉し、またスミスが負傷したので、グラントが全軍指揮に戻った)[4]。グラントがハレックから受けた命令では、ナッシュビルから進軍してくるビューエルのオハイオ軍と合流し、南に進んで南軍の生命線であるミシシッピ川流域、テネシー州メンフィスおよびバージニア州リッチモンドを結ぶメンフィス・アンド・チャールストン鉄道を掴むための協働攻撃を掛けるというものだった[5]。
グラント軍は6個師団からなる総勢48,894名だった。師団指揮官はジョン・A・マクラーナンドとルー・ウォーレス各少将、W・H・L・ウォレス、スティーブン・A・ハールバット、ウィリアム・シャーマンおよびベンジャミン・M・プレンティス各准将だった[1]。師団のうち5個師団はテネシー川西の尾根に宿営した。グラントはこの戦争の間、敵の作戦よりも自分の作戦に強い関心があるという評判が出来ていた[6]。ピッツバーグ・ランディングにあるその宿営は、そのような関心の欠如を最も象徴するものを示していた。その部隊は野営の形に、多くはシャイロー(ヘブライ語で「平和の場所」の意味)[7]という木製の小さな教会の周りで拡がり、ビューエル軍を待ちながら多くの未熟な兵士に訓練を施して時を過ごし、塹壕やその他防御のための手段に気付いてもいない様子だった。グラントはその自叙伝で、塹壕に考えが及ばないことに対する批判に答えて、「この他に、私、
FX
および兵士の軍隊はピック、ショベルおよび斧で経験するよりも多くの訓練・演習を必要とした。...これら全ての状況の下で私は演習や訓練が防塞化の作業よりも兵士に有益であると結論づけた。[8]」ルー・ウォーレスの師団は5マイル (8 km)下流(北方)のクランプズ・ランディングにおり、南軍が川向きの砲台を設置することを妨害し、ベスル駅で鉄道線を攻撃することを意図した配置だった[9]。
ビューエル軍の総勢は17,918名であり戦闘の夜にはシャイローへの長い行程にあった。その4個師団はアレクサンダー・マクック、ウィリアム・"ブル"・ネルソン、トマス・L・クリッテンデンおよびトマス・J・ウッド各准将が率いた[10]。
南軍側では、ジョンストンがその新しく結成した軍隊をミシシッピ軍と名付けた[11]。ジョンストンはグラントの陣地から約20マイル (30 km)南西のミシシッピ州コリンス周辺におよそ55,000名の部隊を集結させた。この中で、44,699名[1]が4月3日にコリンスを発ち、ビューエル軍が参入する前にグラント軍を急襲することを期待していた。この軍隊は大きく4個軍団に編成された。指揮官は以下の通りだった。
戦闘の前夜、グラント軍とジョンストン軍はほぼ拮抗する勢力だったが、南軍は散弾銃、古い型の滑腔マスケット銃、さらにはヤリまであるという古い武器で装備しているに過ぎなかった。彼らはほとんど戦闘の経験も無いままに戦場に到着した。ペンサコーラやモービルから来たブラクストン・ブラッグの兵士が最も訓練されていた。グラント軍にはドネルソン砦で戦闘を経験した歩兵連隊が62個のうち32個あった。その砲兵隊の半分や騎兵隊の大半は戦闘の古参兵だった[13]。
ジョンストン軍の副司令はボーリガードだった。ボーリガードはグラント軍を攻撃しないよう奨めた。行軍の音や南軍兵が2日続きの雨の後でライフルを試射する音が、急襲の価値を下げるのではないかと心配した。ジョンストンはボーリガードの忠告を拒み、「敵が100万でも攻撃」すると伝えた。ボーリガードの根拠のある心配にも拘わらず、北軍は南軍が近付いている音を聞き取ることが無く、3マイル (5 km)離れた敵の宿営地の動きを何の気もなく気付かないままだった[14]。
明日の戦闘では武器の使い方を知っている我々と同じ血の西部の男達と戦うことになる。戦いは捨て身のものになるだろう。
?P・G・T・ボーリガード[15]
ジョンストンの作戦はグラント軍の左翼を襲い、北軍の陸軍とテネシー川の砲艦の支援(さらに退却路)とを分離し、西のスネーク・クリークやオウル・クリークの沼地に追い込んで、そこで全滅させるというものだった。ジョンストンのグラントに対する攻撃は当初4月4日に予定されていたが、48時間遅れた。その結果、再度ボーリガードは急襲の効果が失われるのを怖れ、コリンスへの後退を奨めた。しかし、ジョンストンはこの時も撤退を考えることを拒んだ