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北軍側面は押されっぱなしだったが、まだ決着が着くところまでは行っていなかった。南軍ハーディとポークの部隊が北軍右翼のシャーマンとマクナーランドの部隊をピッツバーグ・ランディングの方向に後退させ、ホーネッツネストの右翼は開いたままになった。ジョンストンの死の直後に、南軍予備隊だったブレッキンリッジの軍団が北軍前線の最左翼を攻撃し、戦力に劣るデイビッド・スチュアートの旅団を後退させ、北軍後部とテネシー川への道が開けることになった。しかし、ブレッキンリッジ隊は再結集と、疲れや混乱からの回復のために停止し、続いてホーネッツネストに向けた砲声の方向に進むことを選んだので機会が失われた。ホーネッツネストが落ちた後、北軍の残っている部隊は、ピッツバーグ・ランディングの周りにテネシー川から西にさらに北の川道に伸びる3マイル (5 km)の固い前線を確立し、遅れているルー・ウォーレス師団の到着を期待して接近路を明けたままにしていた。シャーマンが前線の右翼を指揮し、マクラーナンドが中央、左翼はW・H・L・ウォレス、ハールバットおよびスチュアートの残兵がピッツバーグ・ランディングの上の崖に混み合っていた何千ものはぐれ兵[35]と混合して守った。ビューエル軍の1個旅団、ブル・ネルソン師団のジェイコブ・アメン准将の旅団が舟で到着して間に合い前線の左端に加わった[36]。防御線には50門以上の大砲の環があった[37]。また川には砲艦(USSレキシントンとUSSタイラー)の大砲があった[38]。南軍ウィザーズ准将に率いられた2個旅団による最後の攻撃は、戦線の突破を試みたが撃退された。ボーリガードは日没の午後6時以後に2回目の試みを中止させた[39]。南軍の作戦は潰えた。南軍はグラント軍を川沿いの防御的陣地に押し込んだが、計画した西の沼地へではなかった[40]。
4月6日の夜、アメリカ史の中でも最も流血の多い戦闘の一つの第1日目には気落ちさせる結末だった。両軍間の戦場で死んでいく兵士の絶望的な叫びが夜通し北軍、南軍の宿営地に聞こえた。雷雨がその地域を通り過ぎ、北軍の砲艦からの周期的な砲撃が両軍共にその夜を惨めな経験にさせた。グラントの一時的な挫折にも怯まない態度と攻撃的な姿勢を貫く傾向を要約する有名な逸話がある。疲れ切った南軍兵士が放棄された北軍宿営地で寝に就いたとき、シャーマンは降り注ぐ雨を避けている木の下でグラントに出逢った。グラントは葉巻を吸いながらその日の損失と翌日の作戦を考えていた。シャーマンが「ところでグラント、今日は悪魔の日だったとは思わないか?」と言うと、グラントは見上げて、「そうだな」と答え、1服した後、「そうだ、だが明日は奴らに目に物見せよう」と言った[41]。
もし明日の朝、敵がやってくれば、地獄のようにひっぱたいてやろう。
?ネイサン・ベッドフォード・フォレストからパトリック・R・クレバーンに[42]
ボーリガードはデイヴィス大統領に「完璧な勝利」と電報を打ち、後に「私はグラント将軍をまさに望んでいた場所においていたので、明日の朝には終わらせることができると考えた」ことを認めた。その部下の多くも、北軍の宿営地を取り、何千もの捕虜と数トンもの物資を捕獲したことで喜び勇んでいた。しかし、
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には楽観的になる理由があった。ルー・ウォーレス師団と、ドン・カルロス・ビューエルの15,000名の軍隊がその夜に到着しつつあり、ビューエルの全軍は午前4時までに到着して、翌日の流れを変えるのに間に合った[43]。ボーリガードの夕暮れでその攻撃を停止させた決断については、かなりの歴史的な議論を呼んだ。ブラクストン・ブラッグとアルバート・ジョンストンの息子、ウィリアム・プレストン・ジョンストン大佐は、いわゆる「シャイローの失われた機会」を嘆いた者達の中にいた。ボーリガードは北軍前線の強さを見るために前線に出てこないで、シャイロー教会に留まっていた。ネイサン・ベッドフォード・フォレスト大佐からのビューエル軍がグラント軍の補強のために川を渉ろうとしているという情報(さらに戦争捕虜プレンティスの空威張り[44]))も軽視した。ボーリガードはその決断の言い訳で、部隊は単に疲れており、昼の光は1時間も残っておらず、グラント軍の大砲の優位が手強いものだったとしていた。またアラバマ州北部にいるベンジャミン・ハーディン・ヘルム准将から、ビューエル軍はアラバマ州ジケーターに向かっており、ピッツバーグ・ランディングに向けてではないという伝言を受け取っていた[45]。
シャイローの戦い、4月7日4月7日、北軍は2軍が合流して総勢45,000名となった。南軍は1日目に大きな損失を受けて、その数は8,500名とされたが、落ちこぼれや脱走のために、その指揮官達の報告では残り実質20,000名に過ぎなかった。ビューエルは
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その数字に反論し、28,000名はいたと主張した。南軍兵は南のプレンティスとシャーマンが宿営地に使っていた場所に引き返し、ポークの軍団はピッツバーグ・ランディングの南西4マイル (6.5 km)、4月5日に露営した所まで戻った。戦線は築かれておらず、いたとしても弾薬の補給はほとんど無かった。兵士達は食料、水および最も必要とする夜の休息のための待避所を探す必要性で消耗していた。
ボーリガードはこのとき勢力で負けていることに気付いておらず、攻撃を続行してグラント軍を川に追い落とす作戦を立てた。彼が驚かされたことに、北軍は夜明けと共に行動を開始し大挙して反撃を始めた。グラントとビューエルはその攻撃を別々に始めた。協働行動は師団レベルでのみ起こった。ルー・ウォーレス師団が北軍前線の最右翼で午前7時頃にティルマン・ブランチを渉って最初に戦闘に突入し、プレストン・ポンド大佐の旅団を追い返した。ウォーレス師団の左翼はシャーマン師団の生き残りであり、マクラーナンドやW・H・L・ウォレス(この時はジェイムズ・タトル大佐が指揮を引き継いでいた)の残存兵も加わった。ビューエル軍のブル・ネルソン、クリッテンデンおよびマクックの各師団は左翼に就いた。南軍の防御陣はひどく混じり合っており、部隊の結束は旅団を越えてはほとんど無かった。ポーク少将の師団を露営地から南西に動かして配置に付けるまで2時間以上を要した。午前10時までに、ボーリガードはその前線を安定させ、左翼からブラッグ、ポーク、ブレッキンリッジおよびハーディの順で並んだ[46]。
北軍の左翼はネルソンの師団が前進を誘導し、密接してクリッテンデンおよびマクックの各師団が続き、コリンス道路とハンバーグ・サバンナ道路を下った。激しい戦闘の後でクリッテンデンの師団が朝遅くまでにホーネッツネスト地域を取り戻したが、クリッテンデンとネルソンはどちらもブレッキンリッジによる決死の反撃で撃退された。北軍の右翼は着実に前進し、ブラッグとポークを南に後退させた。クリッテンデンおよびマクックの各師団がその攻撃を再開し、ブレッキンリッジは後退を強いられ、昼までにボーリガード軍の前線はハンバーグ・パーディ道路に沿うようになった[47]。
午後早く、ボーリガードは
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教会地域から一連の反撃を掛けさせ、コリンス道路の制圧を狙った。北軍の右翼はウォーターオークス・ポンドでのこれら攻撃によって一時的に後退させられた。クリッテンデンはタトルの支援を受けてハンバーグ・パーディ道路と東コリンス道路の交差点を占拠し、南軍をプレンティスが使っていた宿営地に追い込んだ。ネルソンはその攻撃を再開し、午後遅くまでにロカストグラブ・ブランチを見下ろす高台を占領した。ボーリガードの最後の反撃は側面攻撃を受け、グラントがジェイムズ・C・ビーチ大佐の旅団を前進させたときに撃退された[48]。
ボーリガードは主導権を失い、弾薬や食料も尽きかけ10,000名以上の兵士が戦死し、負傷し、
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になっていることを認識し、もはやこれ以上は進めないと分かった。ブレッキンリッジの5,000名を殿軍に使い、教会とシャイロー・ブランチの南の尾根にあった大砲を集中させて軍をシャイロー教会の後に退かせた。これらの部隊が午後5時まで北軍をコリンス道路の陣地に留めさせ、その後南軍はコリンスに向けて秩序ある撤退を開始した。疲れ切った北軍は、以前のシャーマンやプレンティスの宿営地まで追撃するのがやっとだった。ルー・ウォーレスの師団はシャイロー・ブランチを越えて前進したが、他の部隊の支援がなかったので、闇が訪れると共に停止し、シャーマンの宿営地に戻った。戦闘は終わった。その後長い間、グラントとビューエルは、まだ明るさが残っている時間を利用してでも即座の追撃を掛けないとグラントが決断した事について口喧嘩した。グラントは、兵士が疲れ切っていることを挙げていたが、南軍も同じように疲れ切っていたことも事実だった。グラントが躊躇したことの一端は、ビューエルと普通ではない指揮の関係を持ったことでもあった。グラントが上級士官であり、事実上両軍を指揮したが、ビューエルは2日間の戦いを通じて独立して行動することを明確にしていた[49]。
4月8日、シャーマンをコリンス道路に沿って威力偵察に派遣し、
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軍が撤退したかあるいは再結集して攻撃を再開するつもりかを確認させた。グラント軍には、偵察行動に最も適し、退却する敵を活発に追撃することに適した大きな組織された騎兵隊が無かった。シャーマンはその師団から2個旅団と2個騎兵大隊を選んで前進させ、ビューエル軍のトマス・J・ウッド准将の師団に遭遇した。ピッツバーグ・ランディングから6マイル(10 km)南西で、シャーマン隊が開けた平原に出てきて、そこに南軍の野戦病院を含む広範な宿営地があった。その地は南軍のフォレスト大佐が指揮する300名の騎兵が守っていた。その平原に近づく道には200ヤード (180 m)以上にわたって倒木が置かれていた