■注意気配
第77オハイオ歩兵連隊の散兵が接近していったが、倒木を払うために難渋した。フォレストは突撃を命じ、散弾銃や拳銃を放ち、サーベルを振りかざし、南部騎兵の気の荒い混戦を生み出し、シャーマンを捕獲する寸前までいった。ジェシー・ヒルデブランド大佐の旅団が横隊を形成し始めると、南軍の騎兵は強力な敵を見て後退を始め、部下よりもかなり前に出ていたフォレストは、自分が孤立していると認識する前に北軍兵からは数ヤードの距離になっていた。シャーマンの兵士が「奴を殺せ!奴と馬を殺せ」と叫んだ。1人の北軍兵士がそのマスケット銃でフォレストの脇に狙いを定めて発砲し、尻の上に当たり、背骨まで通った。フォレストは重傷だったが馬の背に留まり続け逃げおおせた。フォレストはその傷も戦争全体も生き残った。北軍は約100名を失い、フォレストの突撃であやうく捕獲されるところだった。この出来事は「フォールン・ティンバーズ」(倒木)という名前で記憶されている。シャーマンは南軍の野戦病院を占領した後、ブレッキンリッジの殿軍のさらに後尾に遭遇して、敵は新たな攻撃を掛ける兆候が無いと判断し、宿営地に戻った[51]。
この戦闘の直後、北部の新聞は4月6日の戦闘でのグラントの行動を非難した。記者達の多くは戦場から遠く離れていたが、グラントが酒に酔っており、このことで防御の備えが無かったために兵士達がそのテントで銃剣に刺されることになったという誤った情報を広めた。北軍の勝利にも拘わらず、グラントの評判は北部世論の間で悪化した。多くの者は破壊された北軍を統制し、4月7日の勝利に導いたのはビューエルの功績だとした。グラント解任の要求がホワイトハウスに吹き荒れた。エイブラハム・リンカーン大統領はグラントに関する最も有名な発言で答えた。「私にはこの男に換えられる者がいない。彼は戦う」シャーマンはその前の憂鬱や戦闘に先立つ防御の過失を償って余りある銃火と混乱の中での落ち着きによって、即座に英雄として浮上した。しかし今日、グラントは厳しい状況下に保持し得た明晰な判断力と、結局は2日目に勝利に導いた大きな戦術的有り様を認識できる能力によって肯定的に評価されているday.[52]。
それでもグラントの経歴は
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の戦いの後で一時的に傷ついた。ヘンリー・ハレックはその軍隊を結集して再編し、グラントは副司令官という権力の無い地位に就けた。4月下旬と5月に、ハレックが自ら指揮する北軍は緩りとコリンスに向かい、それを包囲して占領した。一方ミシシッピ川の水陸協働部隊が南軍の河川防衛船隊を破壊し、テネシー州メンフィスを占領した。ハレックは全北軍の総司令官に昇進し、東部へ出発すると共に、グラントが指揮に戻った。グラントはミシシッピ川を下って軍を進めビックスバーグを包囲した。1863年夏のビックスバーグの降伏とポートハドソンの陥落の後は、ミシシッピ川が北軍の支配下になり、南軍は2つに分断された。ミシシッピ軍の指揮はブラクストン・ブラッグに任され、ブラッグは4月6日付けで大将に昇進した。1862年の秋に、ブラッグはケンタッキー州侵略軍を率い、ペリービルの戦いの後で撤退するという結果になって失敗した[53]。
シャイロー教会、シャイロー国立軍事公園、2006年撮影シャイローの2日間の戦いはそれまでのアメリカ史で最も損失の多いものとなり、南軍の敗北と、ジョンストンが描いた北軍の2つの軍隊がテネシー州で合流するのを妨げるという作戦が挫折する結果になった。北軍の損失は13,047名(戦死1,754名、負傷8,408名、
日経225
または不明2,885名)だった。グラント軍は2日間にわたる戦いの鉾先となり、グラント軍だけで戦死1,513名、負傷6,601名、捕虜または不明2,830名となった。南軍の損失は10,699名(戦死1,728名、負傷8,012名、捕虜または不明959名)だった[54]。両軍の損失合計23,746名という数字は、アメリカ独立戦争、米英戦争および米墨戦争の戦闘に絡むアメリカ軍の損失合計よりも大きかった[55]。死者には南軍の将軍アルバート・ジョンストンが含まれている。北軍の位が高い死者にはW・H・L・ウォレスがいた。両軍ともにこの大きな損失に衝撃を受けた。このような流血沙汰があと3年間続き、さらに大きな損失を出す戦闘が8度も起こるとは、誰も予測できなかった[56]。グラントは、一つの大きな戦いが戦争を終わらせるという予測はおそらく実現できないと理解するようになった。戦争は大きな損失を出し資源を使って南軍が屈服するか合衆国が分裂するまで継続することになる。グラントは戦争の残り期間で役立つことになる備えについて貴重な教訓も学んだ[57]。
シャンティリーの戦い(シャンティリーのたたかい、英:Battle of Chantilly、南軍の呼び方ではオックスヒルの戦い、英:Battle of Ox Hill)は、南北戦争の1862年9月1日、バージニア州フェアファックス郡で行われた戦いであり、北バージニア方面作戦を終わらせるものとなった。
8月30日の第二次ブルランの戦いで敗北した北軍のジョン・ポープ少将は、そのバージニア軍にバージニア州センタービルまでの撤退を命じた。この移動は暗くなってから行われ、アービン・マクドウェル少将の第3軍団が殿軍を務めた。この軍隊はブルランを渉り、
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の部隊となったフランツ・シーゲルの第1軍団がそこの石橋を破壊した。南軍ロバート・E・リー将軍は、その北バージニア軍が2週間もほとんど休み無く行軍し、さらに3日間近くの戦闘を行ったために疲れていることが分かっていたので、その日に得た戦果を追求しないことにしたために、北軍の退却に支障がなかった。リーの決断によって、北軍ナサニエル・バンクス少将のバージニア軍第2軍団も軍輜重隊を守っていたブリストー駅から行軍してポープ軍本隊に合流することができた。さらに重要なことは、北軍の半島方面作戦から戻ってきたポトマック軍第5軍団と第6軍団を前面に押し出す時間ができ、またポトマック軍指揮官ジョージ・マクレラン少将にとっては面白くないことにそれらがポープの指揮下に入った。
8月31日の朝までに、ポープはその軍隊の指揮系統を掌握しきれていないように見えた。第二次ブルランの戦いでの敗北はポープの神経を粉々にし、次に何をすべきかが分かっていなかった。ワシントン政府は攻撃を望んでいることを知っていたが、リーが先に攻撃を仕掛けてきて、自軍が再び戦えるようになる前に粉砕しにくることを恐れた。センタービルに置いた作戦本部で、以前この作戦中には気乗りせず開こうとしなかった軍団長を集めての作戦会議を開き、ワシントンの防御線の中にさらに後退するという決定に同意した。しかし、総司令官ヘンリー・ハレックからの伝言は攻撃を指示しており、ポープはマナサスの戦場にいるリー軍に向けて前進を命令した。
しかし、リーは既にその作戦に移っており、ポープから攻撃の主体性を奪おうとしていた。ストーンウォール・ジャクソン少将にはポープ軍の右手に回り込みセンタービルにいる北軍陣地の後方に回るよう指示した。道案内と道を遮る北軍の軍隊を偵察するのはJ・E・B・スチュアート少将の南軍騎兵隊が担当した。ジェイムズ・ロングストリート少将の部隊はその日その場所に留まって、リー全軍が北軍の前にいるとポープに信じ込ませ、その間にジャクソン隊が北から東へと回り込み、戦略的に重要なジャーマンタウンを奪る予定だった。そこはポープ軍にとって2つしか無いワシントンへの道、ウォーレントン・パイク(現在は合衆国国道29号線)とリトルリバー・ターンパイク(現在は合衆国国道50号線)が集合する所だった。ジャクソン隊は空腹で疲れており、緩り動いてセンタービルの北東3マイル (5 km)のプレザント渓谷で野営した。ポープは8月31日の夜になってやっと落ち着いたところだったので、リー軍が側面に回り込もうとしていることに気付かなかった。
夜の間に2つの出来事が起こってポープの考えを変えさせることになった。副官の一人がジャーマンタウンの陣地から戻り、騎兵の大きな部隊が交差点を砲撃してから撤退したと報告した。リーやスチュアートにとって幸運だったことに、ポープはこの
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を偵察以上のものではないと見過ごした。しかし数時間後に2人の北軍騎兵が歩兵の大部隊がリトルリバー・ターンパイクを東に進んでいるのを見たと報告したとき、ポープは自軍が危険に曝されていると認識した。ポープは攻撃準備の命令を取り消し、センタービルからワシントンに向けての撤退を指示した。また撤退中にリー軍がやってきそうな道路には歩兵の偵察隊を派遣した。
戦闘の地図9月1日の朝、ポープはエドウィン・V・サムナー少将に1個旅団を北の偵察に送るよう命令した。この軍隊の騎兵隊は偵察任務でひどく消耗していた。しかし同時にワシントンに向けた移動を継続し、マクドウェルの軍団をジャーマンタウン(現在はフェアファックス市の西境界)に送って、軍隊が撤退するために必要な交差点を抑えられるはずだった。また、アイザック・スティーブンス准将の指揮でジェシー・L・レノ少将配下第9軍団の2個旅団を派遣してジャクソン隊を止めさせようとした。フィリップ・カーニー少将の師団がその日の午後、後を追った。
ジャクソン隊は南への行軍を再開したが、兵士は疲れ空腹だったので、雨が続く中、進行ははかばかしくなかった。ジャクソン隊は3マイル (5 km)だけ進み、シャンティリー・プランテーションの南東にあるオックスヒルを占領し、そこで午後3時にスティーブンスの3個旅団と遭遇した。スティーブンスは数では負けていたものの、南軍の中央にいるアレクサンダー・ロートン准将の師団に対して草地の野原を横切って攻撃することを選んだ。北軍の攻撃は初めのうち成功し、1個旅団を潰走させ他の旅団側面を攻撃したが、ジュバル・アーリー旅団の反撃で後退させられた。スティーブンスはこの戦闘中の午後5時頃、こめかみを貫通する銃弾で戦死した。